I don't think so !

じゃあ、お前はどう考えるのだ!

中国人が教える日本のメディアの問題点

今朝(2017年8月10日)の朝日新聞、読者の声欄に中国人の語学講師が寄稿していた。「物理五輪 高校生の偉業に光を」。7月インドネシアで開催された国際物理オリンピックで、金メダル2個、銀メダル3個を日本の高校生が取ったことに大きな拍手を送りたいし、もっと注目されていいニュースなのではないか、と指摘しているのだ。

日本のテレビでは目立った報道がなく、新聞の扱いも小さい。これが中国だったらテレビでトップニュースになるのではないか、とのこと。「物理・数学・化学などの学問は人類の発展に大いに貢献する分野だ。それに没頭する高校生は日本の将来を担う人材になるだろう」。まったくその通りだ。

高校野球が毎試合テレビで放送され、加えて全局、スポーツニュースや報道番組などで何回も事細かに取り上げているのに対して、同じ高校生が世界を相手に戦っている物理五輪をほとんどの日本のメディアは注目しない。この落差を中国人講師は素朴に疑問に感じたのだろう。不思議の国・ニッポン。

朝日新聞の読者の声の担当者も、当事者でありながら同じような疑問を感じたから中国人講師の声を取り上げたのだろうし、私はもっともっと大きな疑問を、ずっとずっと以前から感じていた。恐らく中国人講師だけでなく、身内の日本人からも同様の声は寄せられたのだろうが、あえて中国人講師の声を取り上げたのは、朝日新聞の自戒を込めた演出だったのかもしれない。演出とは中国人に(外から)言われて初めて気づくヘンな私たちニッポン人、という演出だ。

人間の能力は多様だ。走る、投げる、飛ぶ、蹴る能力、記憶力や理解力などの能力、絵画や彫刻などの表現力、楽器の演奏能力、歌唱能力、早食い、大食い能力など数え上げたらきりがない。

しかし残念なことに私たちの大半は凡人であり、だからこそ甲子園や国際陸上、スポーツ五輪、物理五輪、大食い競争などがニュースとなるのだ。確かに競技人口や興味人口あるいは投じられるお金などでニュースの取り上げられ方は偏ってしまうのかもしれない。しかしメディアには多様な能力が人にはあることを、しっかりと伝えてもらいたい。

単に芸能人が遊んだり、食べたり、騒いだり、頭の悪さをさらけ出したりする番組や金太郎飴のように同じ事件やスキャンダルを流す番組を、もっと削った方がいいのではないか。子供たちや若い世代が夢を持ったり、頑張る気になったりする番組をもっと増やした方がいいのではないか。それが大人の役割だ。

ここで物理五輪の内容を紹介しておくと、

「今回は日本代表5人のうち2人が金メダル、3人が銀メダルをそれぞれ獲得した。・・・今回は48回目で7月17日から23日までインドネシアで開催され、86の国と地域から395人が参加した。日本は2006年から参加し、毎年5人が参加している。2022年には日本で開催される予定。毎回理論と実験の問題に5時間ずつ挑戦し、成績上位者の約8%に金、次の約17%に銀、次の約25%に銅メダルが贈られる。」

出典:サイエンスポータルhttp://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2017/07/20170725_01.html

物理五輪の問題は面白い、というか凄い。次のサイトに物理五輪の問題が掲載されている。解いてみようなどと無謀なことは考えずに、高校生たちが戦った世界の一端を知って欲しい。一応理系出身の私だが、気持ちのいいぐらい歯の立たない問題ばかりだ。というか、そもそも問題の日本語の意味が分からない。特に選択型のチャレンジ問題ではなく、理論問題や実験問題が面白い。

物理五輪問題:全国物理コンテスト 物理チャレンジ http://www.jpho.jp/

この際、ついでだから、消えた方がいいと、ずっと思っていた番組を並べてみよう。

①脅迫型医療番組

やたらと白衣の医者が登場する番組が多い。健康そのものが善で、病気にならないように歩け、運動しろ、指定したものを食べろ、それが人としての正しい生き方だという番組は、寝たきりになっても死ねない丈夫な身体づくりを目指しているだけだろう。寝たきり推進番組だ。長生きしてどうしろというのだ。

それと体調に異変があったら、恐ろしい病気かもしれないという脅迫型番組は、病院通いの勧めでしかない。医者の過労死推進番組だ。病院はますますジジババのサロンと化す。

②ニッポンのここが凄い的番組

凄いし、頑張っているのは番組に出演している人であって、日本人も外国人も関係ない。それをのほほんと横になって見ている私たちニッポン人はどこも凄くないのだ。凄くもないニッポン人が自分は凄いと勘違いすると「中国人」や「韓国人」のようなニッポン人になり、ヘイトスピーチをしたりする。私は日本人のように真面目で頑張っている何人もの中国人たちと仕事をしたことがあるし、頑張っている多くの東南アジアの人たちと接してきた。かなり前から大学の研究室は留学生がいないと成立しなくなっているし、大手企業の技術部門も同じだ。外国人を採用できない中小企業の技術部門にいたっては悲惨な状況にある。いずれもニッポン人の多くが頑張らないし、凄くないからだ。

③絶叫型下品コンテンツ

タレントがうるさいコンテンツ。番組だけでなくコマーシャルもだ。とにかくやたらと叫ぶ。食べ物を見ただけで、車に乗っただけで、人に会っただけでワー、キャー、ギャーと叫ぶ女子アナ、イケメン、イケメンと連呼するだけのアホな女性タレント、下品なだけのガサツな男性タレント、自分たちにしか理解できない長々、ダラダラの内輪話。最悪なのは早口のかん高い声でまくしたてること。年寄りには何を言っているのかまったく分からないのだ。若い人たちの視聴人口は減り続け、年寄りの視聴人口が増え続けているにもかかわらず、コンテンツ制作はどんどん若い人向けになっている。高い金をかけているのに、何を言っているのか分からないコマーシャル。何を言っているのか分からないので雑音でしかないのだが、繰り返し放送されるので気になって仕方ない。耳障りだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サイトを立ち上げるぞ

ブログの次はサイトを立ち上げようと、現在、格闘中だ。

退職間近のオヤジの暇つぶしだからといって中途半端なサイトにはしたくない。というか暇なのだから中途半端であってはならない。

企画意図、サイトコンセプト、コンテンツ内容をとりあえず1、2時間かけて企画書らしく書き上げた。それをもとにトップページのデザイン案をホームページビルダーで作成したまでは良かったが、思いの外、内容が膨らんでしまった。公開まで恐らく3か月程度かかると読んでいる。

ホームページビルダーのテンプレートは使用せず、白紙から作成している。デザインは凝るつもりもないので、幾つかのスタイルシートを定義すれば足りるだろうと考えているからだ。テンプレートを使用して少しデザインを変更しようと試行錯誤すると、いつの間にかソースが膨れ上がってしまい何が何だか分からなくなる。テンプレートの使用作法があるのだろうが、やはり、そのまま使用するのが基本だろうし、私のようなひねくれ者には不向きだ。

ホームページビルダーの良いところは、価格が安い割にはウエブアートデザイナーなどのツール類が充実していることだ。先週もデザイナーを使って半日以上かけてイラストを描き上げた。グーグルの画像検索でも気に入ったデザインが見つからなかったので、その中の一つを参考に独自にデザインしたのだ。参考にする画像をデザイナー上にコピペし、画像の大きさを整える。あとはその上に適当な画像をペタペタと配置していけばいいのだ。立体、影、グラデーション、文字効果など素人デザイナーには十分な機能だ。デザインこそ、暇つぶしの最良の友である。

サイトは私がかねてより関心を抱いていた、ある社会的テーマについての「まとめサイト」だ。まとめサイトだから、いろいろなサイトを見ては、適当と思われる内容をチョイスして、出典を明示しながらページを作っていく。私の学習過程をサイト化しているともいえる。ボケ防止にはうってつけだ。

ネット上には膨大なサイトがあって、専門用語の羅列から、偏った内容、専門家の下手な文章、怪しげな内容、単純なパクリ、貧弱な内容、ウソやデマなどのオンパレードで、とにかく「帯に短し襷に長し」なのだ。だったら勉強を兼ねて自分で作ってみようと考えたのだ。

ということでブログは小休止して、しばらくサイトの立ち上げに専念することにした。

 

 

 

読書感想「閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済」(集英社新書・水野和夫著)

水野氏の本を読んだのは今回で3冊目である。「資本主義の終焉と歴史の危機」(集英社新書)、「株式会社の終焉」が私の読んだ前2冊。ちなみに私は「サラリーマンの終焉」を迎えている。

資本主義の興隆を歴史的に俯瞰し、イタリア→スペイン→オランダ→英国→米国と世界の中心的な役割を担ってきたヘゲモニー国家の遷移を捉え、資本主義が終焉するのだから株式会社も終焉し、さあ、これからどうなるのだ、どうするのだ、というのが今回の「閉じてゆく帝国」の著書だ。著書のタイトルだけからすると「資本主義の終焉」=「閉じてゆく帝国」のような印象になるのだが、帝国は資本主義以前からもあったわけだから、今回の著書のタイトルも「終焉後の21世紀経済」とでもしてくれれば、分かりやすかったかもしれない。 

それはさておき、水野氏の理論は単純明快だ。今回の著書でも要約を掲載してくれているので、水野氏の理論や主張をあらかじめ押さえておく必要はない(前作を読む必要はないと言っているわけではない)。

水野氏の理論のキーワードは利子率であり、利子率の意味を問うことが水野氏の主張の根底にある。日本の10年国債の利回りは1997年に2%を割り、2016年にはマイナス金利すら記録した。この超低金利状態が20年以上継続しているのは、人類史上初めての経験らしい。それまでの最長記録は16世紀のイタリアにさかのぼるというから、まさに日本は世界史的な未体験ゾーンをさまよっていることになる。

利子率は資本の利潤率と近似値であるから、超低金利状態とは資本主義がもやは投下する資本に見合った利潤を上げることができなくなったことを意味する。資本が資本の役割を果たせないということは、すなわち資本主義の終了である。それに連動して資本主義の発展を支えてきた株式会社も終了する。株式会社は利益を上げても、利益を資本として投資する先がなく、現在の日本企業のように内部留保として貯めこむだけの存在になる。そもそも利益は投資の結果なのだから、利益を上げることすらできなくなり、やがて配当期待の株主がいなくなり、株式会社は終焉を迎える、ということだ。少々不安を覚える主張だが、「サラリーマンの終焉」を迎えている私としては、「なんだ、オレと同じか」と考えれば、多少、気は休まる、というものだ。

次のキーワードは「蒐集」。収集と同じ意味だが、収集は戦後世代の漢字だ。人類は軍事力を駆使して鬼のような残虐さで土地や資源、人(奴隷)を蒐集、略奪して資本主義を発展させてきた。しかし資本主義はより効率的な蒐集、すなわち市場を通じた資本の蒐集に宗主替えした。

資本蒐集への宗主替えについて語られるキーワードが「実物投資空間」と「電子・金融空間」である。1970年代、米国で起きた構造変化が「電子・金融空間」への移行だ。ベトナム戦争の敗北で米国資本主義は「実物投資空間」での土地や資源の蒐集を放り出して「電子・金融空間」での資本の蒐集に宗主替えしたのだ。

しかしその宗主替えもグローバリゼーションの行き詰りにより終焉を迎えつつある。グローバリゼーションの行き詰まりは英国のブレグジットやトランプ大統領の誕生に見ることができる。結局は「実物投資空間」の現実空間も「電子・金融空間」の仮想空間もともに拡張の余地のない限界にきており、そのことを端的に証明しているのが、ゼロ金利ということだ。

これは近代西欧合理主義の「より速く、より遠く、より合理的に」というイデオロギーの終焉をも意味している。どのように終焉するのか。

まず、かつてのようなヘゲモニー国家はなくなる。だから、次は日本だ、中国だという話もない。世界はEU帝国、アメリカ金融・資本帝国、中華帝国ロシア帝国のように帝国の多極化状態になる。しかも各帝国はせいぜい周辺国を巻き込んだ程度の帝国にしかならず、アンチグローバリゼーションの内向き志向となるのだ。スターウォーズに登場するような全宇宙の支配を目論む強力な銀河帝国ではなく、かなりしょぼくれた地域帝国だ。著書のタイトルである「閉じてゆく帝国」とはそのことだ。「帝国」も水野氏が使用するキーワードで「海の帝国」「陸の帝国」(カール・シュミット)という言葉が頻繁に登場する。   

なるほどと思ったのは中華帝国だ。中国の「一帯一路」政策は中東地域やEU帝国、アフリカ大陸に激突して、あえなく沈没し、過剰な設備投資によってバブルも崩壊する。結果的に、新興国や先進国を巻き込んだ「世界的デフレが半永続的に進行する」という予測だ。ということは将来インフレになるかもしれない、アベノミクスもインフレを目指している、だから退職金が目減りしないように株式投資や外貨投資、投資信託などが必要だ、という銀行や証券会社の口車に乗る必要もなければ、「実物資産の金」のCMに思い悩む必要もない、ということだ。サラリーマンの終焉を迎えつつある私にとっては、一つ心配事が減った気分だ。

さて、水野氏はどのような21世紀経済を予測し、どのような処方箋を提示するのか。「ポスト近代システムは、一定の経済圏で自給体制をつくり、その外に富(資本)や財が出ていかないようにすることが必要」だとする。「閉じてゆく」とことが不可欠になる、というのだ。グローバリゼーションの問題が数多く指摘され、日本やドイツがゼロ金利になっていること自体が、その必要性を既に証明している。

東芝フォルクスワーゲンなど大手企業もさらなる成長を続けようとするなら、不正するしか方法は残っておらず、国家内で政権を維持しようとするなら、アベノミクスやトランプ的な成長路線の幻想やウソを振りまくしかない。ゼロ金利なのだから、所詮、成長やアメリカのグレートアゲインは無理な話なのだ。

「閉じてゆく」帝国で、若干、優位にたっているのは、外に出ていくしか能のない「海の帝国」である米国金融・資本帝国ではなく、EU帝国、中華帝国ロシア帝国の「閉じた陸の帝国」だと水野氏はみる。「閉じた経済圏」で市場経済の再構築が可能なのは「陸の帝国」だというのだ。もちろん米国がメキシコとの間に壁をつくらず、世界の警察官も放棄して沖縄の米軍基地を撤収し、北米大陸南米大陸とで地域帝国を目指すのであれば話は別だが、それは無理そうだな、とやはり思ってしまう。

そのような米国にこれまでと同じように、ただ追随するのは愚の骨頂であると水野氏は断じ、日本は日本なりの「地域帝国」のビジョンを描くことが重要だと説く。1980年代後半、ドイツはボロボロの東ドイツを抱え、「欧州の病人」とまで揶揄されながらも、かつて戦争をした国々、すなわちヨーロッパ諸国をまとめる方向に大きく舵を切り、何だかんだと言われ続けながらEU帝国の中心的地位を占めるに至っている。一方、日本はアジア通貨危機があったにもかかわらずチャンスを逸し、現在に至っている。国家戦略の違いだ。しかし日本は今後とも「地域帝国」のビジョンを描き続け、そのための準備をすべきだという。準備とは、

財政均衡

再生可能エネルギーへの転換

地方分権の推進

である。いずれも「閉じてゆく」ためには欠かせない準備だというのだ。確かに財政赤字の海外依存比率の増加は将来的な財の流出につながるだろうし、日本のエネルギーや食料政策は自給率を見るまでもなくグローバリゼーションを前提としている。地方を強化しなければ、東京だけでは「閉じてゆく」こともできない。

もしくは「EUに毎年加盟申請をする」ことを水野氏はまじめに提案する。日本は過去においてはチャンスを逸し、現在においては①~③とは真逆の方向に進んでいるようだ。地方分権を声高に叫んでいる人たちからは集権的強権的な匂いしか漂ってこないし、現実的には、四国での獣医学部新設を国家が主導してもめている程度だから、地方分権は何も進んでないように思える。自ら「閉じてゆく」ことができないのであれば、他力本願しかない。その場合はEU帝国に属し、メルケル首相に知恵を借りようというのだ。目からウロコの発想だ。これは凄い。

「資源争奪の戦争が起こる前に、各国が自国の生存にのみ興味を払う主権国家システム」を脱し、「閉じた帝国」を目指す。私個人としては世界は戦争資本主義(破壊それだけを目的とした資本主義)に突入するのではないかと思っているのだが、水野氏は世界的な規模での戦争を起こさないためにも「閉じよ」、やっかいな主権国家システムを放棄せよ、と言っているのかもしれない。

成長ではなく「閉じた定常状態」を目指すのが水野氏の処方箋なのだが、水野氏らしい地味な処方箋だ。私の老後の人生そのものだ。「外にお金が出ていかないように閉じて生きてゆく」だけだ。「よりゆっくりと、より身近な範囲で、より不器用に」生きてゆくだけだ。ウォシュレットのない海外には行かず、国内旅行で十分だ。

政治や経済の世界では特効薬もウルトラC技もないのは、考えてみれば、ごく当たり前のことだろう。当たり前のことだが、特効薬やウルトラC技を求めるのが主権国家の国民であり、その類の怪しいウソに乗るのも国民である。主権国家システムを捨てなければならないのも国民である。

難しい問題だ。      

 

 

 

 

サラリーマンとしての基礎的能力は訓練によって身につけることができる/判断停止の思考術

<サラリーマンとして必要な思考能力>

以上、私が考えるサラリーマンに必要な基礎的な文章能力、五つの思考能力、コミュニケーション能力である。誰もが持っている能力であり、少しばかりの努力と訓練で磨きをかければ、サラリーマンとしては十分にやっていくことができる。十分にやっていけるとは昇格、昇給を実現できるという意味だ。もちろんそれを望まないサラリーマン人生だってある。

さて、思考能力について振り返っておくと、

①押さえておくべきいろいろな要因を洗い出す列挙能力、これは思いくつくままに、すなわち思いつくことに対し判断を停止してワープロに書き出すだけで身につく。この判断を停止する思考術については便利な思考術なので後ほど説明する。列挙能力、洗い出し能力が物事を考えるスタートラインになる。この能力不足を感じるのであれば部内のブレストなどで簡単に補うこともできる。

②次に問題の原因を追求する深堀能力、Whyを繰り返すドリルダウン思考法だ。Whyを自らの行動に結びつくように5回以上繰り返すだけでよい。

③プラス・マイナス思考法はマイナス要因だけではなく、プラス要因も考える思考法だ。欠点の指摘やマイナス要因の列挙は誰にでもできる簡単なことであり、誰にでもできないのがプラス要因をくみ上げることだ。これをやらずに改善を進めると大きな失敗につながることもある。

④松竹梅型思考法は、何らかの提案を考えるとき、必ず3案以上を考える思考方法だ。そうすれば自ずと自らの提案はより良くなる。この案が絶対だ、この道しかないというのは危ないだけだ。

⑤最後は、いろいろなトラブルや出来事、仕事の共通性を考える抽象化能力である。共通性を見出す能力は、本来、人間に備わっている能力であり、誰にでもできることである。共通性から自らの行動を引き出すことが教訓を学ぶという行為にほかならない。抽象化能力を伸ばすためには、日常的に共通性を考える習慣を身につけるだけだ。

サラリーマンとしては以上の思考能力があれば十分だろう。誰にでもできそうなことだし、誰でも普通にやっていることなのに、これがなかなかできないと言われる。なぜか。やはり思ったことや考えたことを文章化する能力が大きな関門だろう。

40、50歳代の管理職になってからでは手遅れなので(文章能力のない管理職は早く管理職の任を解くしかない)、20歳代や30歳代の若いうちに頑張って文章能力の訓練をすることだ。スマホを使えば、いつでも、どこでも思いつくままに文章化できる便利な時代だ。私も以前、1年ほどツイッターを続けた時期があった。意識的に文章を140文字で完結させるようにし、無理であれば140文字の倍数になるようにしたのだが、あれは素晴らしい文章の書き方訓練ツールだと思う。

思ったことを思いつくままに文章にすることが習慣化すれば、思考能力は自ずと身につくようになる。

もう一つの関門が、あれやこれや一度に考えてしまい、整理ができず、余計混乱して終わってしまうことだ。一つひとつ順を追って考えることができないのだ。一つひとつ考えるのは五つの思考能力に共通する思考術だ。

<判断停止の思考術>

社内で使用する業務アプリの画面デザインを考えてみよう。社内で使用する業務アプリを自社開発する場合、通常は画面デザイナーを必要としない。担当社員とプログラマーでデザインを決めるのだが、これが下手である。下手な理由ははっきりしている。担当社員の頭の中の整理が不十分なのだ。

業務アプリの自社開発で画面デザインをする場合、次の3つの要素を一つひとつ考えれば良いだけである。一つひとつ考えるときの優先順位は下記の通りである。

①機能

②操作性

③デザイン

機能を洗い出すときは、操作性やデザイン性はいったん棚上げにして機能の洗い出しに専念する。この操作性やデザイン性を棚上げにするのが判断停止の思考術だ。機能の洗い出しが終わったら、次に操作性のみを考える。その段階ではデザイン性などの見てくれは棚上げにする。機能の洗い出しが不十分なままに、次の操作性やデザインを考えたりすると、考えていなかった機能が次から次へと現れ、その都度、デザインのやり直しになったりするので非効率的でもある。

社内打ち合わせなどでも、機能の洗い出しを行っているのに、操作性やデザインなど議論していないテーマや次に議論すべきテーマを持ち出す社員は必ずいる。判断停止の思考術ができないのだ。するとすぐに同調する社員も出てくるから困ったものだ。不十分な検討しかしていないことすら理解しないまま、次のテーマに移ってしまうのだ。「さっきの話の結論はどうなった」とか「今、そのことは議論していないから」といって議論を引き戻すことになる。本当に何度、議論を引き戻してきたことか。

議論が行き詰まって次に行かざるを得ない場合は、いったんまとめを行うなり、後から戻って議論することを宣言した上で次に進むことだ。

いずれにせよ、考えるべきことがらが複数あったら、一つひとつ考え、最後まで考えつくしたと思ったら、はじめて次の検討事項に移る。一つひとつ考えることができないと、整理が悪いということになる。また、最後まで考えつくしたという感覚は大切だ。もちろん後から忘れていたことが出てきても構わない。最後まで考えつくして次に移るという意識や感覚が重要だ。

最後に蛇足ながら画面デザインついての私の経験則をまとめておく。

①機能の洗い出し

業務アプリの画面機能は、通常、項目名、表示情報、入力情報などの情報表示機能とデータ更新や印刷、他画面への遷移などの機能の実現に分けられる。情報表示機能は検索した結果を単純に表示する場合と集計など何らかの処理を行って表示する場合に分けられる。このように場合分けして項目名、表示内容、処理内容を表にまとめていくのが機能の洗い出しである。処理内容が複雑で表に収まらなければ別紙にする。大切なことは見やすいように一覧化することだ。

思いつくままでも構わないので表にまとめ、まとめ終わったら、社内の習慣などにしたがって行を入れ替えて表示する順番を決める。情報量の多さによっては複数画面に分ける場合も出てくるので、そのときは情報をカテゴライズ(分類)する。

②操作性

操作性とは使い勝手の良さである。使い勝手の良さとは使用するときの統一感と使用頻度を考慮したボタンや表示情報などの配置、画面遷移などである。画面によって印刷ボタンの位置が異なったり、常に一緒に見るべき情報が泣き別れして別画面に遷移しないと見れないと操作性は悪い。

③デザイン

社内で使用する業務アプリであれば、必要な機能が実現されており、操作性がそこそこであれば、通常は問題ない。しかし統一性など最低限のデザイン上の基本ルールはある。統一性というのは、操作性でも説明した画面タイトルや印刷ボタン、終了ボタンなどの配置位置や使用する文字の大きさ、要素間の距離などをそろえるということだ。社内で作成した業務アプリの画面デザインで間の抜け印象を与えるのは要素間の距離の不統一と空白の取り方が下手な場合が多い。基本原則は距離をそろえ、空白を極力排除することだ。

文字の大きさと文字色は2種類、書体は1種類を基本にする。これは社内ドキュメントも同じだ。普通のサラリーマンには、何種類もの文字の大きさや色、書体をうまく使いこなせないと考えるべきだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サラリーマンとしての基礎的能力は訓練によって身につけることができる/コミュニケーション能力編

確かに会社でもコミュニケーション不足やその能力不足を指摘する声は多い。人事部門ではコミュニケーション能力の強化を社員教育の目標にし、自己申告書では若手社員がコミュニケーション不足を嘆き、飲み会などでも困っていることはないかと聞くとコミュニケーション不足と答える。いやはやコミュニケーション不足のオンパレードである。しかし、会社は回っている・・・。

私は40年のサラリーマン人生を振り返っても、コミュニケーション不足の問題をそれほど感じたことはない。「それぐらい連絡しておけよ」と言ったことは何度もあるが、だいたいは業務ごとの連絡網の整備や確認で終わってきた。どのようなトラブルであればすぐに報告し、どのようなトラブルであれば翌日対応でも良いのか、誰に報告するのかなどを決めてきた。決めたことを守らなかったら、守らなかったことに対しては怒ってきたが、コミュニケーション不足という漠然とした内容で怒ったことはないはずだ。

立場上、「ホウレンソウ」が大事だと強調したことはあるが、自分が「ホウレンソウ」ができているのかと考えると自信がないため、強調してみただけで、あまり考えないようにしてきた。

コミュニケーション不足についてよくよく聞いてみると幾つかのパターンに分かれるようだ。

<若手社員が訴えるコミュニケーション不足>

若手社員の言うコミュニケーション不足は、上司が仕事の内容や意義をきちんと教えてくれないことを言っているケースが多い。しかし、これは無理な話である。人事異動、本人の能力、仕事内容の変化などがあって、多くの場合、上司は若手社員に担当させている仕事の内容をきちんと理解していない。私も、過去、何人もの部下や同僚はいたが、彼らが休んだら私が代わって仕事ができたかと考えると、打ち合わせぐらいには出たが、具体的な仕事を代わってしたことは極めて少ない。そんなものだ。

次に多いのが他部門や他の社員の仕事内容が分からない、だからコミュニケーション不足だ、と言うのだ。これも無理だ。同様に他部門や他の社員の仕事内容をきちんと理解してる上司などほとんどいない。

つまり若手社員のいうコミュニケーション不足とは上司が無能力であることを言っているにすぎないのだが、それは当たり前のことであり、そのことに気づいていないか、気づいていないふりをしているのかのいずれかだろう。すべての問題を上司に責任転嫁できるからだ。

若手社員は本当に仕事の内容を知りたければ、職制としての上司ではなく実際に仕事の内容を知っている社員をつかまえて聞いたり、他部門の仕事の内容を知りたければ、他部門に行って聞いてくればよい。それだけである。上司は万能ではないと理解して動くだけである。待っていても、黙っていても誰も教えてくれない。いくら嘆いても物事は進展しない。

私は自分の仕事には関係のない部署の仕事内容を知りたいと思ったことはあまりない。会社人間としては知っていた方が良いのかもしれないが、とにかく知らなくても良いことは知りたくないのだ。性格かもしれないが、知らなくても気にならなかった。それでも社内会議に何年も出席し、何年も酒を飲んでいれば、自ずと各部の仕事内容は見えてくるものだ。

<中継社員が訴えるコミュニケーション不足>

次に中堅社員のいうコミュニケーション不足とは、若手社員が相談してこない、経営者や管理者が会社や部の方針、方向性を説明してくれないことを嘆いているケースが多い。これも無理な話だ。若手社員は何を相談してよいのかが分からないし、相談したいこともそれほど持ち合わせていない。教えてもらいたいことが、それなりにあるだけだろう。

会社や自部門の方針を明確に説明できる経営者や管理者も皆無に等しい。せいぜい説明できるのは目の前の課題だけだ。将来を見通し、会社や自部門の方針をきちんと説明できる経営者や管理者ばかりだったら会社はもっと発展し、もっとたくさん給料をもらっていたはずだ。そんな会社は少ないのではないか。

私自身、40年のサラリーマン人生でやってきたのは目の前の課題や必要だと思った課題をこなしてきただけだ。その課題を並べて部の方針だ、会社の方針だともっともらしく言ってきただけだ。思いつく課題をパッパッパッと並べて、適当に社内外の情勢を放り込めば方針の一丁上がり、という具合だ。

<管理者が訴えるコミュニケーション不足>

管理者のいうコミュニケーション不足で多いのは、すぐに報告がない、という嘆きだろう。何でもかんでもすぐに報告する必要はないと思うのだが、とにかく何でもかんでもすぐに知りたがる管理者や経営陣がいる。私の経験からするとそのような管理者や経営陣に限って実は仕事の内容を理解できていないケースが多い。不安だから「ただちに報告せよ」と言っているだけだ。報告が上がっても内容は理解できないし、緊急性も分からないから報告がないと思っているケースが大半だ。社員もバカではないから、本当に大変なことはすぐに報告しているし、責任もとりたくないから、大変なことでなてくも報告しているのだ。

結局のところ、コミュニケーション不足とは、各階層における能力不足にほかならないのだが、その解消は不可能だと思うべきなのだ。つまりそのような意味でのコミュニケーション不足は当たり前のことだ。放っておけばよい。

さらにつけ加えるならば、社内の問題点を聞かれて「コミュニケーション不足です」と答えない方がサラリーマンとしては身のためだ。実際に社員からコミュニケーション不足と言われて、次のように言い放った社長がいる。

「そんなことオレに言われても困る。お前らでなんとかしろ」。

まったく、その通りだ。コミュニケーション不足とは「そんなこと」に過ぎないのだ。「お前らでなんとか」すべきことなのだ。

<人の性格は直せないし、直す必要もない>

コミュニケーション能力の問題を性格に起因するものとして考えられたり、語られたりすることも良くある。

もちろん私から見てもTPO(Time:時、Place:場所、Occasion:状況)をわきまえない社員はいる。KYの(空気が読めない)社員はいるし、KYの(危険予知ができずにつまづきそうなところできちんとつまづく)社員もいる。

ところがTPOをわきまえないとかKYだとか声高に叫ぶ社員ほど、私からするとTPOをわきまえず、KYのようにしか見えない。大多数の社員は、お互いの性格を知った上で、きちんと対応しているからだ。たとえ変だと思っても大声で叫んだり、言いふらしたりはしない。諦めているのかもしれないが、人間とはそういうものだということを、少なくとも会社の中ではわきまえている。

だから性格的なことを指摘されても、気になっても、無視すべきである。以前読んだ本に「人間、25歳を過ぎたら変わらない」とあった。そうだろうなと思ったので、今でも良く覚えている。多かれ少なかれ、人は他人と異なっている点があるものだ。それが性格だ。そう簡単に変わるものでもない。

自分とは性格が著しく異なっていると思うのは、思う人の勝手や都合であって、著しく異なるという絶対的な尺度はないのだ。そう思う人の方が著しく異なっているのかもしれない。

性格的なことは思い悩んでも、気にしても仕方がなく、ただ受け入れるだけだ。

<コミュニケーション能力とは仕事の整理力>

会社におけるコミュニケーション能力とは、突き詰めると仕事の話しができるかどうかだ。ゴルフや二次会のカラオケを断った社員がいても、コミュニケーション能力がないとは誰も思わない。酒の席上の話が面白くなくても、ずっと黙っていてもコミュニケーション能力がないとも思わない。逆に酒の席上では賑やかでも、社内で仕事の話ができない社員や管理職はコミュニケーション能力がないと言われる。

とにかく仕事の話がきちんとできれば、サラリーマンとしてのコミュニケーション能力は合格だ。

仕事の話というのは、だいだい次の3点に集約される。

①これからの業務課題

②いま担当している仕事の進め方

③いま担当している仕事を進める上での注意点

この3つの説明がきちんとできる社員は、安心して部下をつけられるし、管理職にもなれる。

きちんと説明ができるとは、整理がきちんとできているか、ということに尽きる。整理がうまくできていれば、たとえ話下手であっても、説明は理解される。説明の下手な社員は確かに多い。しかし下手な説明を何度も聞いていると、整理の仕方が下手なのだということが分かる。整理の仕方が下手だから、話があちらこちら飛んで、日本語で話しているのに、さっぱり内容を理解できない。

整理の仕方をうまくする方法は簡単だ。文章化することだ。ワープロの自動段落番号機能を使って書き出してみることだ。

①これからの業務課題

これからの業務課題とは仕事に対する問題意識ということだ。問題意識の多くは業務改善である。たとえベンチャー企業といえども新事業の立ち上げや新製品の開発を担当する社員は極めて少ない。

サラリーマンは問題意識が常に問われる。ただ言われたことをこなしている社員ほど問題意識は少ないが、たとえ少なくても思いつくままに書き出す。書き出すと不思議と業務課題や問題意識は増える。これも文章化する効果だ。記憶はすぐに消えるが文章は残るからだ。だから内容が次々と連鎖的に広がり豊かになる。

次に優先順位の高いものから並べる。優先順位を高いものから並べることが整理することなのだ。業務課題は減ることもあるが増えることの方が多い。増えるたびにメンテナンスし、優先順位を振り直すことが重要だ。

このような整理を日常的に行っていれば、突然、職場の問題や課題を問われても、優先順位の高いものから系統立てて説明できるようになる。

②いま担当している仕事の進め方

最終的にはマニュアル化することだ。最初はワープロで思いつくままに仕事の進め方を箇条書きにする。箇条書きが終了したら、順番を確認しながら不足を補ったり、仕事の進め方にしたがって入れ替えたりする。項目が多くなったら見出しをつけ、グルーピングする。これに解説を付加すれば業務マニュアルの完成だ。

体系だった業務マニュアルが整備されている会社であれば、通常、社員はマニュアル化されている業務そのものではなく、作業員の管理や教育などが中心業務となる。社員はマニュアル化されていないかマニュアル化が不完全な仕事を担当する。だから社員である以上、担当している仕事のマニュアル化は必要だ。

非定型的な仕事が多くても同じである。非定型的な仕事が多いからマニュアル化できないという話は良く聞くが、何か毎日やっている以上、やっていることを言語化できないことはない。

③いま担当している仕事の進め方の注意点

かならず仕事には注意点や要となるポイントがある。それを同じように箇条書きにする。箇条書きを終了したら、仕事の進め方順に並べ替える。これがチェックリストになる。マニュアルとチェックリストを混同しているケースをときどき見るが、これらはまったくの別物である。チェックリストは使うためのものであり、マニュアルは学習もしくは参照するためのものだ。マニュアルのようなチェックリストは使いづらいだけだ。

以上、簡単なようだが、やっていることを言語化するのは慣れるまでが大変だ。少し難しいかもしれない。しかし慣れれば、社内で流通する言葉は限られているため、思いのほか簡単にできるようになる。いずれにせよ仕事の内容を言語化し、並べ替えたりグルーピング化したりすると間違いなく仕事の整理がうまくなり、説明も分かりやすくなる。すなわちコミュニケーション能力は格段に向上する。

サラリーマンとしてのコミュニケーション能力はこれで問題ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サラリーマンとしての基礎的能力は訓練によって身につけることができる/思考能力編⑤

<抽象化能力―――教訓を引き出す思考術>

いよいよ私なりに考えるサラリーマンに必要な思考力能力=考える力の最後だ。

抽象という言葉を手元の電子辞書を叩くと「事物や表象からある性質・要素・共通性を引き出して把握すること。また、把握して一般的な概念をつくること。」(明鏡国語辞典)とある。

つまり仕事や仕事の中でのさまざまな出来事から共通性を引き出すこと、引き出したことから一般的な概念をつくる能力、すなわち教訓を引き出す能力が抽象化能力である。

「そのミスは以前もやったではないか。同じミスを繰り返すな」と言ってもキョトンとしている社員がときどきいる。最初はキョトンとしている理由が分からなかったが、40年もサラリーマンをやっているとだんだんと分かってくる。以前やった仕事と今回やった仕事は異なる仕事なのだ。異なる仕事で発生したミスは異なるミスでしかないし、だからそもそも以前やった仕事が何の仕事を指しているのかも分からない。だからキョトンなのである。そこに悪気も誤魔化そうという気持ちもまったくない。

確かに教訓を引き出すのは難しいことかもしれない。ヘーゲルも次のようなことを書いていた気がする。

「よく歴史から教訓を学べと言うが、歴史を学んで分かることは、いかに大衆は歴史から教訓を学ばないか、ということだけだ」。

どの本に書いてあったのか覚えていないが(内容的には「歴史哲学」か)、ヘーゲルが単なる皮肉で書いたのか、本当にそう思っていたのかは不明だが、昨今の国内外の情勢を見る限りでは、本気でそう書いたのだろうと勝手に思っている。

それはさておき、サラリーマンが少なくとも自分の仕事の経験や出来事から教訓を学べないようでは会社としては困るのである。できれば他の社員のミスやトラブルからも教訓を学んで欲しいと願っている。

しかし幸いなことに共通性を引き出す(抽象化する)ことは、それほど難しいことではない。

4、6、8、10

の公約数(共通性)を"2"と答えることができれば、その人は間違いなく抽象化能力がある。どう見ても"4、6、8、10"の数字の形状には"2"の形はないのだが、それでも”2”と答えることがきるのは抽象化能力があるからだ。"2"と答えられなかった人は、これ以上読む必要はない。

次に、200m+4Km=4.2Kmと答えることができれば抽象化能力に問題はないし、

リンゴ2個+バナナ4本=くだもの6つ、と答えることができる人は申し分のない抽象化能力を有している。分からなかった人は覚えておけばよい。つまり物事には必ず共通性がある、ということだ。"4、5、9、10"の共通性は数字だ。整数でも良い。

このことを素朴に信じて、普段から物事の共通性を考えるようにすれば抽象化能力は自ずと身につく。

A君、B君、C子さんの共通性は”腹黒い”とか、A社、B社、C社の仕事の共通性は”担当者が口うるさい”とかである。サラリーマンが共通性を考えるときに払う注意は、行動に結びつくような共通性を考えることだけだ。

A君、B君、C子さんの共通性を”人間”としてしまうと行動には結びつきにくい。”腹黒い”とするからこそ話すときは気をつけよう、”口うるさい”から仕事の進捗状況をこまめにメールしようとなる。この「話すときは気をつける」、「こまめにメールする」が教訓に他ならない。共通性から行動を導き出すのが教訓化である。

共通性を考えるクセが身につけば、総務部、製造部、営業部の仕事の共通性も、以前やったミスと今回やったミスも、システム部のトラブルと経理部のトラブルの共通性も考えることができるようになる。

ITの世界の抽象化も同じことだ。オブジェクト指向、参照モデル、外部関数、論理名など多くのIT用語が共通化を意味している。多くの人が簡単に使えるよう共通化すれば開発効率が向上する、ということだ。

物事には、すべて共通性がある、それだけだ。

 

 

サラリーマンとしての基礎的能力は訓練によって身につけることができる/思考能力編④

<松竹梅型思考法―――選択肢を用意する処世術>

松竹梅型思考法とは、常に、松竹梅の3案を考える、ということだ。この案しかない、この方法しかない、この道しかないというのは、だいたいにおいて怪しいし、危うい。パソコンを購入するときでも、下位機種、中位機種、上位機種の3つの選択肢が必ず用意されている。にもかかわらず「上位機種を100台購入します」とだけ提案されてしまうと、経営陣としてももっとコストダウンできないのか、と言わざるを得ない。

なぜ、メーカーは3タイプのモデルを提示しているのかに気づかなければならない。人は選択肢が与えられれば、その選択肢の中から選択しようとする。もしメーカーが一つの選択肢しか用意しなければ、人は他メーカーの製品を選択肢にしようとする。人とはそういうものなのだ。

マーケティング的に言えば、売りたいものを真ん中に据えよ、となる。パソコンも中位機種が最も売れる。もし本当に上位機種100台が必須なのであれば、中位機種、上位機種、オプションを付加した上位機種もしくは高額なワークステーションを提案し、上位機種を推薦する方法を採るべきだ。だから松竹梅型の提案は、提案を通しやすくするサラリーマンとしての処世術でもある。大切なことは他の案も検討した、という事実だ。

松竹梅型の提案や思考は物品の購入に限らない。

営業、製品開発、製造ラインの構築、システム開発などすべての業務に共通することだ。システム開発では同一要件であってもSEが10人いたら10通りの設計が出てくるし、プログラマーが10人いれば10通りのプログラムができあがる。業者が10社あれば、10通りの見積もりが出てくる。これはどういうことか。簡単である。どのような仕事であれ正解は一つではない、ということだ。最終的には同じ結果を得る、もしくは正解を手にすることができても、そこに至るまでには幾通りもの方法やルートがあるということだ。そこにあるのは方法やルートの優劣である。

ということは何らかの提案を考えたとき、必ずその提案より良い提案と悪い提案がある、ということになる。だから常に自らの提案をより良くするために3案ぐらいは考えるべきなのだ。

ところが最初に思いついた案以外に考えない、もしくは考えることのできない社員が多い。もし社員がこの案しかないと言ってきた場合は、より良い提案があると思って却下すればよい。

松竹梅型思考法の訓練も極めて簡単だ。最初に思いついた案をそのまま素直に書き出す。次にそれより、必ずより良い案があると思うことだ。最初の案以外に考えることができないのは、自らがその案や考えに囚われてしまっているからだ。その場合は、時間をおくなどして頭をリフレッシュするしかない。リフレッシュの仕方は人それぞれ工夫すればよいことだ。

これは自分が考えたことを客観視する、あるいは自己相対化するということだ。私の場合は自分の考えたことをポンと外に放り出すという感覚だ。これは誰にでもできることだ。なぜなら人間は、本来、そのような能力が備わっているからだ。

食事をしている自分、喜んだり悲しんだりしている自分、人を笑わせようとしている自分、何かを考えている自分を人間は別の自分に意識させることができる。女性は泣いている自分がかわいそうだと同情してもっと泣くらしい。

このように人間は自分が考えたこと、書いたことを見る別の自分を立てることができる。自分の魂が身体を抜け出して自分を見る幽体離脱のようなものだ。幽体離脱では天井から寝ている自分を見下ろす感覚らしい。自分自信や自分が考えたことを見下ろすのは、とても良いことだ。幽体離脱は霊的現象ではなく、人間を賢くさせるすばらしい能力なのかもしれない。人は他人と争ったり、他人をバカにしたりしている自分をもっと見下ろすべきだ。あっ、「おマエのことだ」と言っている自分がいる。

いずれにせよ慣れさえすれば自分が考えたことを比較的短い時間で相対化できるようになる。いま考えた案より、より良い案があると思い、それを見下ろして、より良い案を考えるだけだ。簡単なことだ。