I don't think so !

じゃあ、お前はどう考えるのだ!

海王丸と富山湾の曇り空

「国家はなぜ衰退するのか」(早川文庫)、日本は衰退しつつあるのか

それにしてもこの手の本は面白い。ジャレド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」もそうだが歴史の背後の「なぜ」を膨大な世界史的事実から浮かび上がらせてくれる。その「なぜ」は今後の時代の流れを見通すための視野を与えてくれる。

なぜ、スペインはインカ帝国を簡単に蹂躙できたのか(ヨーロッパ人が持ち込んだ風土病=病原菌の力で免疫力のなかったインカの戦士たちは満足に戦えなかったのだ!)、それでも、なぜ、スペインは莫大な富を手にしながらも衰退し、イギリスが繁栄していったのか、なぜ、中南米は出遅れ、北米はすさまじい発展を遂げたのか、アフリカやイスラム諸国は、なぜ、後塵を拝してしまったのか、奴隷貿易黒死病はどの程度の規模だったのか、それが歴史にどのように大きなインパクトを与えたのか、等々・・・。

歴史の「なぜ」を地理的要因や気候的要因、文化的要因、あるいは民族的な要因に求める学説は数多くあり、私たちも漠然とそう考えたりする。赤道付近は暑いし、蚊も多そうだから人々は頑張らない、民族的に劣っているから新しい知識や技術を理解できない、日本人だから高度成長を実現できた、島国という地理的優位性があったから・・・といった考えを普通に持っている。

しかし、たとえば民族的に劣っているから繁栄できない、という考え方が根本的に間違っていることは、20世紀以降、人類学者や遺伝学者たちが証明してきた。ブラジルやインドネシアの奥地に住む原住民の赤ん坊をニューヨークに連れて行き教育すると、普通に英語を話し、数学ができ大学にも進学する。民族的な能力の差などないのだ。日本人だって普通に数学のできない人は多い。

「国家はなぜ衰退するのか」の著者のダロン・アセモグルとジェイムズ・ロビンソンも同じで著書の前半で地理的な要因、文化的、民族的な要因などを説明のつかないことが多すぎるとしてバッサリと切り捨てる。それでは衰退と繁栄の要因は何かというと、政治制度、経済制度だと主張する。包括的もしくは多元的な政治制度や経済制度を採用できた、もしくは採用せざるをえなかった国家は繁栄し、最初から収奪的な政治制度や経済制度を採用したり、途中からそのように変質していった国家は衰退する。

たとえばコロンブスがアメリカ大陸を発見した後、スペインはインカ帝国から莫大な金銀を手に入れたにもかかわらず、国王と一部の特権階級が富を独占する収奪的な制度を発展させてしまったために、あっという間に衰退していった。それに対してイギリスは1688年の名誉革命を境に多元的な政治制度や経済制度を発展させ、広く市民が一攫千金を狙えるようにすることで産業革命の大きな成功を実現し、米国の植民地を飛躍的に発展させた、というのだ。

かといってイギリス人がスペイン人よりも賢かったから、北米に多元的な政治制度を持ち込み大きく発展させたわけでもない。賢かったからではなく、そうせざるを得なかったのだ。当初、イギリス人もスペイン人と同じように略奪的な方法で富を得ようと思っていたらしい。ところが残念ながら北米は中南米のようなインカ帝国もなく、現地人が広い土地に散在していた後進地域だったのだ。帝国があり、人口が多ければ、スペイン人のように王を吊るし火あぶりにして住民を脅迫すれば簡単に金銀が手に入った。しかし北米ではそれができなかった。略奪する相手がおらず自分たちで開拓して稼ぐしかなかった。そのために、いわば仕方なく多元的な政治制度や経済制度を採用せざるを得なかった、というのだ。

やむなくそのような制度を採用するにせよ、創造的破壊の結果にせよ、成功した権力者や政治的エリートはひとたび既得権を手にすると、それを守ろうとして収奪的、独裁的な制度を強化しようとする。しかし米国のように独立してしまい、勝手に別の道を歩んでしまうケースもある。衰退するのか、さらに繁栄するのか、国家の岐路はさまざまだ。その辺りの様子も数多くの歴史的な事実を積上げ、随所に描かれている。いずれにせよ制度こそが発展や衰退の推進力なのだ。

「国家はなぜ衰退するのか」が面白いのは、この「制度」をキーワードに農耕革命の古代から現代までを縦横無尽に語っていることだ。

日本は衰退しつつあるのか

このような本は読み物として、ただ読んでいるだけでも面白いのだが、どうしても今の日本や世界のあり様について考えさせられる主張や表現にも、あちこちで遭遇する。イギリスの名誉革命では次のような一節がある。

「何らかの多元主義がなければ、多様な利害関係者のうち一人が、ほかの人々を犠牲にして権力を奪う危険性がある。1688年以降の議会がそうした幅広い連合を代表したという事実が決定的要因となり、議員でない人や選挙権を持たない人の請願にも議員が耳を傾けるようになった。これが、あるグループがほかのあらゆるグループを犠牲にして独占体制をつくることを妨げた決定的な要因だった」。

もちろんこれは英国資本主義の黎明期の話であって、その後の農民や子供、労働者たちを襲った悲惨な実態は「資本論」などに詳細に描かれている通りだ。

しかし少数派や少数意見も包み込む「包括的」あるいは「多元主義」というキーワードが世の中を発展させていくことだけは間違いなさそうだ。政治家がいろいろな人の声に耳を傾けなくなったときが、多元主義の終わりであり、収奪的で独裁的な政治制度の始まり、すなわち国家衰退の始まりなのだ。

アメリカファーストで米国大統領が誕生し、都民ファースト東京都知事が誕生する。ヨーロッパでも難民排斥を声高に主張した候補が大量得票し、英国はイギリスファーストなのかEUを離脱してしまった。それぞれの国で事情は異なるが、私にはどうしても格差社会の進展が多元主義否定の方向に作用しているように思えてならない。

「国家はなぜ衰退するのか」、次は著書の中で引用されている国家を衰退させていった専制君主や政治エリートの言葉である。

オーストリア・ハンガリー帝国皇帝の教師に対する演説

「硯学(せきがく:広く深い教養)は要らない。必要なのは善良で誠実な国民だ。諸君の(教師の)任務は若者をそのような国民に育てることだ。私に仕える者は、私が命じることを教えなければならない。それができない、もしくは新しい考えがあるという者は、職を辞すがよい。さもなければ私がその人間を追放しよう」。

19世紀オーストリア政府補佐の貧しい人々のための社会改革要求に対する回答

「われわれは大衆が豊かになって独立心を養うことを望んでいない・・・そうなったら、彼らを支配できないではないか」。

本の学校教育の在り方や格差社会の改革を本当に政治家は望んでいるのだろうか。実際に行われている政策は、残念ながら教育の一元化と格差の固定化、富の既得権者たちへの集中化の方向ではないだろうか。もし、そうであるのなら、「国家はなぜ衰退するのか」の主張が正しいのなら、日本は衰退に向かっていることになる。

確かに包括的であり多元的である、というのは難しい。いろいろな意見に耳を傾け理解しなければならないからだ。その上で自分とは異なる考え方の人がいることを認めなければならない。忍耐と努力と寛容さが必要なのだ。それに引き換え一元化の方向は簡単だ。排除なり排斥をすれば済むことだ。数の力と声の大きさで押し切ればいいことだ。右傾化とか「この道しかない」というのはまさに多元主義を否定する一元化の典型だろう。しかしサラリーマンの終焉を迎えつつあり、安易で楽な人生(余生)を望んでいる私だが、一元化という安易な方向だけは頑張って避けよう。       

 アボリジニ―の知恵

 仕事で20年以上前、社内のパソコン普及を推進し、普及し終わったと思ったら、リプレースとOSのバージョンアップの繰り返しだった。パソコンの性能は、2年単位で処理速度やメモリ、ハードディスクの容量が倍々ゲームの飛躍的な向上を遂げてきた。とても便利になったはずなのに、おかしな現象が生じてきた。会社の売上はそれほど増えないのに、年々、とにかく忙しくなる一方だったのだ。期初に年間目標を立てるのだが、最後の10年ぐらいは、今年は乗り切れるのだろうかと、常に不安に襲われていた。今年は絶対にダメだ、乗り切れないと思った年も何回かあった。いま振り返ってみれば結局のところ、なるようにしかならない、できることをやるしかないのだが、とにかく年々忙しくなっていったことだけは間違いない。

本の中で、そのような私をあざ笑うようなアボリジニーの行動が紹介されていた。

「大きな技術革新、つまり鉄の斧を使いはじめたとき、生産量が急増することはなく、睡眠時間が長くなったのだ」。

日本全体で見れば、恐らく売上や生産性はそれほど伸びず、正社員を非正規雇用に置き換えたり、非正規雇用を社員化することによって給与水準を落としたりして利益確保に努めているようだ。長時間残業やブラック企業など、労働時間を増やすことでしか生産性を上げることができない。

いま、アボリジニーの行動は貴重な教訓なのかもしれない。